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関ヶ原の戦い「本当の裏切り者」は誰なのか? 教科書が教えない「小早川秀秋」以外の真犯人
http://toyokeizai.net/articles/-/135173
2016-09-22 18:08:50
>家康の背後にあたる高地(南宮山)には、西軍約2万9000が布陣しており、家康はつねに後方を脅かされる形で戦わなくてはなりませんでした。その絶好の位置で戦いの様子をじっと見守り続けていたひとりが、吉川広家でした。
>広家は東軍の苦戦を目の当たりにしながらも、このチャンスに軍を動かすことなく、高地にいた同じ西軍の動きを完全に封じてしまったのです。三成は合戦の途中で何度も広家に「督戦」を促す使者を派遣しますが、「いま弁当の準備をしている」と言ったという「吉川の空弁当」のエピソードも残っています。
・毛利家が総大将なのに毛利の両川が裏切ってるってのがね……
・そんだけ石田が嫌われていたって事でしょ。毛利だって有利な方に鞍替えすのは元就からの伝統だし。
・toyokeizai
・関ケ原は純粋な戦ではなく暴力的な清州会議だと思うよ。裏切りとかの非難はナンセンスかと。
・毛利が天下を取る最後のチャンスを潰した。所詮は田舎大名。
・#5 でも元就は毛利は天下を狙うなと遺言したんじゃなかったっけ
・36万9000石は吉川が毛利に譲ったとかいう話じゃなかったかね。
・#7 そうでもしなければ、主家の領地が無くなったもんな 。主家を守るのが目的だったからな。
・クーデターを主導した毛利家が、途中でヘタレて西軍丸ごと売り飛ばした、という話?
・#7 防長二国を吉川にやると家康が言ったら自分の領地は要らないから毛利にやってくれと頼んだ 家康が主家思いで感心だと岩国は吉川にくれてやって吉川家も大名扱いすることとなった でも毛利家からは分家扱い
・いくら内通していると言っても家康もよく背後に布陣させたものだな
・毛利の後ろに布陣した、土佐の長宗我部も戦いに参加出来ず、なにもしないで土佐を召し上げられた。その長宗我部の家来達が土佐の鄕士となる。
・東軍西軍の両方を敵に回し単独で両軍に鉄砲をしかけたのが薩摩の島津。で毛利、島津、土佐の鄕士の3つが明治維新を起こすことになった。
・以上、「風雲児たち」より
・#14 「風雲児たち」に#13のような描写は無いなあ。両方を敵に回しって何?
・西軍は三成が督戦に行って追い払われてた。東軍は決着が付いて薩摩が残っているのに家康が気付いたあたりで、あいつらも裏切っているのか、いや近付いたら鉄砲打たれたって会話があるのでそれじゃないかな。