[記事一覧]  [編集][削除] 466

[読み物]
報道に対する過度な無謬性の追求には、原発の安全神話や警察検察による冤罪を生むのと同根の問題がある+101
投稿日時 2011-04-08 23:07:25 (gdakmi)   [4気になる]  [2興味無い]

http://togetter.com/li/120555
> 読者からみた正しいジャーナリストの選択としては、「間違えを言わない」人ではなくて、「きちんと訂正する人」にすべき


この記事に対するコメント

[#1] (tmkscq) 「きちんと訂正」しても、訂正記事が元の記事より極端に小さかったりしては意味ないよね。

[#2] (gdakmi) #1 そういうのは「きちんと」とは言われず「こそこそ」だと思うな

[#3] (miitnv) あと語り手の主観を省いてほしいね。あんたの感想なんかに電波使うなっての。

[#4] (gwtvat.) 完全な主観の排除は不可能。会見生中継にしたって、どの会見を生でやるかの判断とか、カメラワークに主観が入る。メディアリテラシーを磨くしかない。

[#5] (vzzfku) 究極的には「中立な報道」も不可能なんだよな。

[#6] (jtkdsp) #4-5 「完全にやるのは不可能」を「最低限のレベルにすら達していない」という状況で主張しても意味が無いだろう。

[#7] (twgsma) 危機的状況になったら、という前提を語るのがタブーだったので、なってしまったら脆かったっていう話だからね。「皇軍が敗れるはずがない」で「転進」し続けてじり貧負けしたのに通じるかも。

[#8] (qondng) じゃあ正しいジャーナリストはほとんどいないってことですね >「きちんと訂正する人」

[#9] (hieypp) アナウンサーが一行読んで終わりとかなー

[#10] (zmeyow) 無謬性は追求すべきだろ。デタラメでも構わないとか情報源足り得ない。何でも叩ける魔法の言葉「過度な」「完全に」。


最終コメント 2011-04-10 04:30:12